秋の夜、ギターを膝にのせて
夜が長くなって、ギターを取り出す時間が増えてきた
こんばんは、七海です。
最近、日が暮れるのがぐっと早くなりましたよね。
窓の外が暗くなるのが早いと、なんだか一日が急に静かになる気がして、気づくとギターのケースに手が伸びているんです。
夏のあいだは外に出ていることが多かったのに、秋になると「家で、ひとりで、ギターと向き合う夜」が自然と増えていきます。
誰かに聴かせるわけでも、何かの締め切りがあるわけでもない。
ただ、膝にギターをのせたくなる夜。
今日はそんな時間のことを、日記みたいに書いてみようと思います。
ちょっと照れくさいけど、おつきあいください。
あたたかい飲み物をそばに置いて、まずは何も弾かずに構える

弾きはじめる前に、私は必ずあたたかい飲み物を用意します。
湯気がふわっと立つマグカップを手の届くところに置くと、それだけで「今夜はゆっくりしていいんだよ」と言われているような気持ちになるんです。
それから、ギターを膝にのせて、すぐには弾かずに少しだけ構えてみます。
アコギの丸いボディが胸とお腹のあいだにすとんと収まる感じ、木の部分がほんのり冷たくて、だんだん体温でなじんでいく感じ。
弦に指を置く前のこの数十秒が、実はけっこう好きだったりします。
深呼吸をひとつして、肩の力を抜いて。
ここでようやく、一日のざわざわが落ち着いてくるんです。
コードを手でなぞる、ただそれだけの時間
曲にしようと思わず、指の形と音の響きを確かめる
この夜の練習は、曲を作ろうとか、何かを仕上げようとか、そういうものではありません。
Cを押さえて、鳴らして。
Amに移って、また鳴らして。
コードの形を手でなぞりながら、「この音、あたたかいな」「この響きは少し寂しいな」と確かめていくだけです。
指先で弦を押さえると、じわっと痛みが返ってきます。
ギターを弾く人にはおなじみの、あの感覚ですね。
長く弾いていても、しばらく間があくと指先はちゃんと柔らかくなっていて、「ああ、戻ってきたな」と思うんです。
痛みって、ちょっと不思議で、嫌なはずなのに、ギターに触れている実感をくれるんですよね。
コードを順番になぞっているだけなのに、不思議と気持ちまで整っていきます。
うまくなるための練習というより、ギターと自分の気持ちのところに戻ってくるための時間。
私にとって、夜のこの作業はそんな感じです。
弾き語りで、曲の形がぼんやり見えてくる瞬間

なぞっているうちに、ときどき、ふっと口から鼻歌がこぼれることがあります。
歌詞とも呼べない、ただの「ふんふん」や「らら」です。
でもその、意味のないメロディをコードに重ねて弾き語りしてみると、曲の形がぼんやりと浮かんでくる瞬間があるんです。
はっきりした輪郭じゃありません。
霧の向こうに建物の影が見えるような、あの感じ。
「あ、こっちに行きたいのかも」という方向だけが、うっすら見える。
そのとき私は、急いで捕まえようとはしないで、同じ進行をゆっくり何回か繰り返して、様子を見ます。
逃げてしまいそうな小鳥に、そっと近づくみたいに。
もちろん、その夜のうちに形になるとは限りません。
むしろ、ならないことのほうが多いです。
それでも、「なんとなく見えた」という手ざわりだけで、その夜はもう十分だったりするんです。
うまく鳴らない夜の、ちょっとした焦りと照れ
とはいえ、いつもいつも穏やかな夜ばかりではないんですよね。
正直に言うと、うまく鳴らない夜もあります。
Fのバレーコードがびびってしまったり、指がもつれたり、歌うと声がうわずったり。
そういうとき、私は「あれ、今日はだめだな」とちょっと焦ってしまいます。
そして誰も見ていないのに、なぜか一人で照れるんです。
「こんなこともできないのかな、私」って。
自分でも笑っちゃうんですけど、ギターに向かうと、変なところで見栄を張ってしまうんですよね。
そういうときは、いったん手を止めて、マグカップのあたたかい飲み物をひと口。
それだけで、少し気持ちがほどけます。
弾けない夜があるのは、弾いているからこそ。
そう自分に言い聞かせて、また弦に指を戻します。
はじめてギターを持った日と、曲づくりを始めた頃
小学3年生、抱えきれない大きさのアコギと指の痛み
こうして夜にギターを抱えていると、ふと、はじめてギターを持った日のことを思い出します。
小学3年生のときでした。
子どもの私には、アコースティックギターは本当に大きくて、抱えきれないくらいでした。
腕をまわしても届かないし、座っても低い位置で構えるのがやっとで。
でも、ボディに耳を近づけて弦をはじくと、体の中まで響いてくるんです。
あの振動に、胸がどきどきしたのをよく覚えています。
そしてもうひとつ覚えているのは、指の痛みです。
押さえるたびにじんじんして、赤くなって、「こんなに痛いんだ」とびっくりしました。
それでも手放したくなかったのは、あのどきどきのほうが、ずっと大きかったからなんだと思います。
今の夜の練習で感じる指先の痛みは、あのころの自分に会いに行く合図みたいでもあります。
高校の頃のワクワクと、「これでいいのかな」という迷い
高校生になって、私は本格的に曲づくりを始めました。
自分の言葉とメロディでひとつの曲を作れるんだと気づいたときのワクワクは、今でも忘れられません。
ノートに歌詞の断片を書いて、ギターでコードを探して、できたかも、と思った次の日にはぜんぶ書き直したくなって。
でも同時に、迷いもたくさんありました。
「これでいいのかな」「誰かに聴かせるほどのものなのかな」って。
ワクワクと不安を、行ったり来たりしていたんです。
今になって思うと、あの迷いは、曲づくりをやめたくないという気持ちの裏返しだったのかもしれません。
迷いながらも、結局ギターを手に取っていたのですから。
そして、いまの私が夜に感じる「うまくいかない焦り」も、あの頃の迷いとどこかでつながっている気がします。
形を変えて、ずっと私と一緒にいるんだなあ、と。
路上ライブの前の夜も、きっとこんな時間だったなあ

高校の頃は、放課後に中野の駅の近くで路上ライブをしていました。
通りを行き交う人たちの前でギターを構えるのは、いつも緊張しました。
声が震えたり、指が冷たくて思うように動かなかったり。
そんな日の前の夜は、決まって家でコードをなぞっていました。
曲を完璧にしたかったというより、ギターに触れて、自分を落ち着かせたかったんだと思います。
あたたかい飲み物を置いて、ひとりで静かに弦を鳴らして。
今こうして書いてみると、あのときの夜も、今夜とよく似た時間だったなあ、と思います。
足を止めて聴いてくれた人がいたときのうれしさは、今も胸の奥に残っています。
あの出会いがあったのは、前の晩にコツコツ手を動かしていた時間があったからかもしれません。
あなたの「好きなことに向き合う夜」へ
上手くいかなくても、手を動かす夜には意味がある
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
いろいろ書いてきましたが、私がいちばん伝えたいのは、とてもシンプルなことです。
上手くいかなくても、手を動かす夜には意味がある、ということ。
うまく弾けなかった日も、曲の形が見えなかった日も、後から振り返ると、ちゃんと次の日につながっているんです。
結果が出なくても、好きなことに向き合った時間そのものが、静かに自分の中に積もっていく。
私はそう信じています。
今でも迷うし、焦るし、照れもします。
でも、それごと含めて、私の弾き語りなんだと思えるようになってきました。
読んでくれたあなたの夜の時間を、そっと思い浮かべて
私にとってはギターですが、あなたにとっては何でしょう。
絵を描くことかもしれないし、文章を書くこと、楽器に触れること、編み物や読書かもしれません。
誰にも見せない、ひとりの夜の時間。
もし今夜、あなたが好きなことに向き合う時間をもてるなら、あたたかい飲み物をそばに置いて、ゆっくり始めてみてくださいね。
うまくいかなくても大丈夫。
手を動かしているあなたの夜を、私はここからそっと思い浮かべています。
秋の夜は長いので、焦らず、ゆっくり。
それではまた、次の日記で会いましょう。
おやすみなさい。
